江戸時代、徳川将軍家は冬季になると鷹(たか)狩りを行っていました。鷹狩りとは、タカを放ち鳥や獣を捕まえる狩りで、タカを手にした古墳時代の人物埴輪が出土していることから、その歴史は古代まで遡ると考えられています。五代将軍綱吉の時に発布された「生類憐(あわ)れみの令」により一時中断したものの、その後、八代将軍吉宗の時に復活、幕末まで続きました。
狩りが行われる鷹場は、江戸城周辺の葛西地域(現在の葛飾・江戸川・墨田・江東区)・岩淵(北区)・戸田(埼玉県戸田市)・中野・目黒・品川の江戸周辺6カ所と定められていました。中でも葛西地域は、河川や池・沼が多くアシなどが繁茂し、水鳥が住む好適地だったため、最も規模が大きい鷹場でした。
鷹場の獲物は、ツル・カモ・ハクチョウなどの鳥類でした。なかでもツルは、将軍が朝廷へ献上する重要な獲物だったので、その狩りは「鶴御成り」とも呼ばれていました。また、亀有・青戸・白鳥・四つ木地域の一部では、ツルの飼付場が設けられ、付近の農家から選ばれた飼付役が、ツルの渡来する11月下旬から将軍が狩りに来る当日まで、餌をまいて飼っていました。
江戸時代の川柳に『鶴(つる)有といひたき御場(おんば)の地名なり』
『鶴の御成に亀有はきつい事』と、葛西での鶴御成りの様子を詠んだもの
があります。
「亀有」を「鶴有」としたところに、鶴御成りと関わりの深い地域だっ
たことが分かります。「きつい事」とは、将軍家の鷹場と定められ名誉で
ある反面、狩りの際人手を出させ、麦畑のかかしを抜くよう指示されたり、魚を捕るような殺生を禁止されたりと、葛西の人々が鷹場のために細かな制約を受けたことを指しています。
鷹狩に関する史料としては、戦国期の葛西城が挙げられます。江戸時代になると青戸御殿として改修され、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって鷹狩の際の休憩や宿泊所として使われました。また、1841年には鶴供養のために宝木塚・下千葉村(現在の宝町・東堀切など)の人びとが建立したものです。
この冬季に区内を散策する時、水鳥を見かけたら、この地域が「徳川将軍家」の鷹場だったことを思いだしてください。
また違った視点で楽しめるのではないでしょうか。散策がてらに少し足をのばして、将軍ゆかりの地を訪れ、葛飾の歴史に触れてみるのはいかがでしょうか。