「鬼は外、福は内」
節分を迎えると、新春の行事もー区切りとなりますが、今年はコロナの猛威によっていつもとは違うようです。
柴又帝釈天では、2月2日に予定されていた恒例の節分会が中止になりました。いつもですと災害をもたらす赤鬼と疫病をもたらす青鬼が参道を練り歩き、帝釈天の境内へ打ち入ります。境内にある舞台では、帝釈天の使いとされる神猿と赤鬼、青鬼による節分問答が寸劇仕立てで披露され、鬼たちは神猿に追い返されてしまいます。その後、来賓や年男年女が、詰めかけた人々に向かって、福豆をまき、一年の平安が祈念されました。
節分は本来、「季節の移り変わる節目」の意味で、特に立春が一年の初めと考えられることから、次第に節分というと立春の前日の2月3日を指すものとなりました。しかし、明治5年に太陽暦へ改暦されるまで、節分の豆まきは12月大晦日の行事として行われていました。年の変わり目は、人間の気が弱くなり、それにつけ込んで鬼が悪さをするので、鬼を追い出すために行われていたのが豆まきです。
大豆を煎(い)って升に入れて神前に供えた後、今年一年の無病息災や家内安全など幸福を祈念してから「福は内、鬼は外」と声を張りあげて豆をまきます。豆をまいた後には、家の入り口にヒイラギの枝葉にイワシのお頭を挿し置いておくと、鬼が戻ってきてもヒイラギの尖った葉やイワシの臭いで逃げ去るといわれています。
まいた豆は、後で歳の数の数だけ食べますが、地域によっては一つ足した数を食べるところもあり、この豆を食べると一年健康でいられるとされています。
では、なぜ豆まきになぜ大豆が用いられるようになったのでしょうか。一説に、京都の鞍馬(くらま)に鬼が出たとき、毘沙門天のお告げによって大豆を鬼の目に投げつけたところ、鬼を退治できたという話が伝えられています。「魔の目(魔目=まめ)」に豆を投げつけて、「魔を滅する(魔滅=まめ)」に通じるということのようです。
「イワシの頭も信心から」といいますが、葛飾では節分になると今でも家の戸口にヒイラギとイワシの頭を飾った風景を見かけることがあります。家によっては枝豆の殻のついた枝を添えたり、鬼が怒るといけないので小さな声で「鬼は外」と言ったりするところもあるようです。
この季節の葛飾のまち歩きの時、家の玄関口の風景にちょっと注目すると、江戸の昔、歳の瀬の大晦日に行われていたいにしえの遺風を見ることができるかもしれません。こんな発見も葛飾ならではのまち歩きの楽しみです。