5月下旬になると、堀切菖蒲園や都立水元公園の花しょうぶの花だよりが届くころです。江戸時代の葛飾では、花の名所として堀切の菖蒲園が歌川広重の『名所江戸百景』で紹介されるなど江戸庶民に広く知られていました。
実は、堀切の菖蒲園が花の名所として知られる前に、木下川薬師のカキツバタが江戸近郊随一の花名所として知られていたことが、文政10年(1827)に著された『江戸名所花暦』に記されています。
この木下川薬師として親しまれている浄光寺は、嘉祥2年(849)に最澄(伝教大師)作といわれる秘仏薬師如来像を草庵に安置したことがはじまりとされる、区内でも有数の由緒ある古刹です。
江戸時代には、徳川将軍が鷹狩の際に、食事をとる御膳所としてたびたび訪れるなど、将軍家とのつながりも深いお寺です。将軍家ゆかりの品も伝えられています。
『江戸名所花暦』では、「池中ハ一面紫にして、そのなかへ八ツ橋をかけわたし、往来をなさしむ」と、木下川薬師境内の池に咲き誇るカキツバタの情景を絵入りで紹介しています。カキツバタは、水中や湿った場所に育つアヤメ科の植物で、5月中旬から下旬に青紫や白色の花を咲かせます。ことわざに「いずれ菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)」といわれるように、あやめや花菖蒲によく似ていますが、これらとは全く別種のものです。
江戸時代の後期以降になると、カキツバタの花が目当ての江戸庶民や多くの文人墨客が木下川薬師を訪れ、賑わいをみせていました。境内や周辺には、飲食をする茶屋もありました。
明治の世になっても木下川薬師のカキツバタは、堀切の花菖蒲とともに花の名所として東京の人々に愛されました。しかし、首都東京を洪水の災禍から守るために、明治44年(1911)から進められた荒川放水路(現在の荒川)の開削計画によって、木下川薬師はその計画路線にあたり、移転を迫られることになります。
大正8年(1919)、木下川薬師は現在地(東四つ木一丁目)へ移転し、旧境内地とともに、カキツバタが繁茂していた池は、放水路の流れに姿を変えてしまいました。
江戸近郊随一のカキツバタの花の名所として親しまれた木下川薬師の旧境内地は失われてしまいましたが、現在の境内地の池には、この時期になるとご住職が大切に育てているカキツバタが紫の花を咲かせます。
その気品ある紫の色に、かつての江戸の庶民が集い愛でたカキツバタをしのぶことができます。
江戸庶民が愛でたカキツバタや木下川薬師の歴史、荒川放水路の開削による地域の変貌などを訪ね歩くのも、四つ木・東四つ木界隈の散策の楽しみです。